中にいると見えないこと 〜フィードバックのありがたさ〜
例年3学期は参観希望の方が多いのですが、この2週間は立て続けに総勢14名の方々がいらっしゃいました。
さらに、その合間にはイベントもあり、子どもたちの興奮状態はMAX。金曜日が終わる頃には私も疲れ果てていました…
今回は半日教室にいらした方が多かったので、子どもたちは嬉しそうに自分たちのここまでの学びを説明したり、校内を案内したりしていました。
外部の方がいらっしゃることは、そんな普段とは違った彼らの様子を見ることができるる上に、様々なフィードバックをいただくことができるという貴重な機会でもあります。最近は、子どもたち以外から本当の意味でのフィードバックをもらうことがほとんどなかったので、ありがたみは倍増!
私にとっては当たり前となってしまっていた風景も、見る人が変われば急に色鮮やかになるんだなぁと実感しています。
多かったのは子どもたちが生き生きと学んでいる姿とその学びの豊かさに対するコメント。3学期に入って、engagementの度合いがまた一段とぐっと上がったとは思っていたのですが、彼らはそんなにすごいのかー!!とちょっと新鮮。
それから、教室の中の雰囲気も私にはあまり見えていなかったこと。
「居心地がいい。」「子どもらしく元気なんだけど、穏やかな空気も流れている。」
確かに言われて見ると、笑いの絶えない、ほっこりした空気が流れていることが多いかも。子ども同士によくあるトラブルは日常茶飯事だけど、根底にある寛容さがこの集団の魅力なんだと改めて感じました。私もよく「ごめんなさい」をして、許してもらっているもんなぁ。
「すごくホスピタリティに溢れている子どもたち」という言葉はいろんな方から何度も出てきました。人のために何かをすることが大好きな年齢ということや、まだまだ大人に甘えたいということもあるんだろうな。もしかしたら、豊かなコミュニティとは何かについて探究を続けていることも少なからず影響を与えているのかもしれません。
そして、当たり前だけど、私自身が違和感を覚えていたり、ちょっと苦しいかなと思ってやっていたりすることは、フィードバックでも突っ込まれる!
あー、やっぱりそうだよねー。うんうん。
目から鱗のツッコミではないんだけれど。もっというなら、その場面で、あ、これ後で言われるだろうなーなんて思っている自分もいるのだけれど。
それでも、フィードバックとしてもらえることで、その違和感に向き合うことができます。あれは、よくなかったよな。だけに留まらず、なぜ、私はあの選択をしたのか。そこにどんな意図が隠れていたのか。その言動は、子どもたちにどんなメッセージを伝えているのか。私が普段伝えたいと思っていることと一致しているのか。。。
新人の頃は、全く自覚していなかったことに対するフィードバックがあったことを考えると、予定調和ではない子どもとのやり取りをメタで見られるようになっているってことで、それは私自身の成長でもあるんですよね。
いろいろな制約がある中で、必ずしもいつも私自身が最善だと思っている選択をできるわけではない。この理想と現実のギャップについては、先日伺ったTEALについてのお話がすとんと落ちて、少しスッキリしました。
ギャップについて、仕方がないと諦めることではないけれど、もがいて苦しみ続けることでもないかなと。ただ、少なくともその自己矛盾のある選択に自覚的であること、振り返って必要に応じて修正できること。そこは大事にしたいです。
「知的欲求が満たされている」と言われた子どもたち。
彼らはここに来てさらにパワフルさを増しているので、1日が終わるとぐったりしてしまうことも少なくありません(笑)それでも、彼らと共に学びを創り上げていく時間は本当に楽しくて、わくわくしてばかりです。
今年度最後のユニットも、こちらの当初の想定を超えた深い学びが展開されていく予感。。。あと4週間で、どこまでいけるんだろう!?
子どもたちの目を通して新たに世界を知る 〜「終わりのない旅」〜
まだ帰国してから2ヶ月しか経っていないなんて信じられないほど仕事に飲み込まれてしまいましたが、そんな中、大学院の課題も無事に終え、学位を取得することができました!
この夏の学びは、じわじわと教室での実践に影響を与えているようです。意図的に何かを変えているわけではないけれど、振り返ると学んだことや感じたこととのつながりがふんわりと浮かんでくる。そんな感じです。
本当にありがたいことに、クラスの子どもたちのほとんどは探究の時間が大好きです。教科融合テーマによって、個人の興味や関心にはばらつきがあるけれど、クラス全体としてはここまで常に比較的高い熱量を維持しています。
わくわくも、つぶやきも、疑問も、思わずカラダが動くのも止められない!!そんな子ども達の姿はとってもわかりやすいフィードバック(笑)
毎時間、小さな、そして時には大きな発見を繰り返しながら、自分の身の回りの世界についての理解を広げたり深めたりしている様子を見ると、やっぱり学びはこうあるべきだよなぁとつくづく感じます。
磁石一つで、こんなに盛り上がるの!?!?というくらい、あれも不思議!これもやってみたい!!
巻尺が校庭でおもちゃのようになってしまう。夢中になってイキイキと遊びながら学んでいる。
もちろん、あぁ、私も子どもの頃これが不思議だったなぁとか、これ、楽しかったよねーということもありますが、え?そんなこと思いつきもしなかった!!や、言われて見ると確かになんで???ということもたくさんあります。
それを一緒に考えたり、やってみたり、探ってみたり・・・。
本当におもしろい時間!!
探究の時間の中で、私が教えている知識は本当に少ないことを改めて実感する日々。
校内で若手教員研修を担当している私にとって、PYPでの教師の役割は探究のテーマそのものです。
新しいユニットが始まって1週間。
今日も子どもたちはすごーくのめり込んで磁石と向き合うんだろうな・・・
昨日は、予想→実験(観察)→まとめ→新たな疑問→予想 というサイクルについて共有していたら、「探究は無限のループ!!」「終わりのない旅だね!」と喜んで(?)いました。
この半年間での彼らの1番の成長は、探究者としての考え方や態度が探究の時間以外で多く現れるようになったことではないかと感じています。
他の教科の時間はもちろん、家庭も含めた授業時間以外でも身につけたスキルを活用できるようになったり、元々の自分の興味や関心の範疇にないことについてもおもしろがれるようになったり。
後期もますます楽しみ!!
学習者というレンズを通してみた授業風景 〜It's all about lenses!〜
このコースの初回の課題文献に、学習者の立場からする自分の実践を通して振り返ることの重要性が書かれていて、こんな恵まれた機会はもうないかもしれないと感じていました。
せっかくなので、学習者から見た(しかもクラスで一人だけ、いろいろマイノリティ…)今回のコースの様子についてまとめてみたいと思います。最後の授業が終わったら、教授にメールしようかなー。
◇教授がとってもフレンドリーで、おおらかな人なので安心。
やっぱり、初めの印象って大事ですね。メールのやりとりが先で、しかも飛行機が遅れて初回の授業には間に合わなかった・・・という気まずい滑り出しだったので温かく迎えてもらえて一安心。細かいところにこだわらないおおらかさもマイノリティから見ると、「合わせなきゃいけない」プレッシャーが減って気が楽です。
私は子どもたちに対して最初からこんなにフレンドリーじゃないなぁ。あたたかく迎え入れているつもりだけど、厳しさも当然ある。大学院だから生徒は学生であって学生じゃないから厳しさは必要ないと思ってる?
私は私の仕事はするけど、最終的には全ては生徒の責任 vs 子どもの命と身の安全は私の責任
この差もあるのかなぁ。
◇用意しているパワーポイント資料が時間がないからととばされるのはイヤ。
授業のパワポ資料はその日の授業が終わり次第、すぐにBlackboardにアップされます。だから、とばされたスライドも見ることはできます。でも、イヤなんです。。。なにがイヤなんだろう???
家で自分で復習することを当然としている前提?
時間内に終わらないことがわかっているのに、資料がそのままなこと?→うーん、でも補足資料を用意してくれることそのものは親切でもあるよなぁ。
スライドの解説がないと、そのスライドを用意した意図を理解しきれないから損した気になる??
◇グループの組み方をいろいろと工夫してくれるから、いろんな人の意見が聞けてうれしい。
以前の投稿でもお伝えしたように、グループ分けは様々な方法を使って行われます。多分、他にもいろいろと「明日から使える〇〇」みたいなテクニックが盛り込まれているんだと思います。(すでに、自分が使っているものに対してはあまり気づかない)14人いるクラスメイト、それぞれの意見を聞けるっていうのはやっぱり貴重!全体ではこの少人数でもここまで深くは聞けないもんなぁ。さらに、マイノリティだからこそもつ疑問とか、文脈がよくわからないが故の質問とかは、全体では聞きにくい。このワンクッションとっても大事。
私も 個人ワーク→ペア・グループワーク→全体共有 という形をよく使うけど、単純に子どもの活動時間を増やすとか発言に対するハードルを下げるとかだけではない、グループワークの良さを感覚的に捉えられたなぁと。しかも、それを能力的には不利な点がある立場から改めて実感できたことは貴重でした。
◇この教授がつくったルーブリックじゃないとわかっているから、どこまで厳密に評価されるのか懐疑的。
小学生相手じゃないので、そもそもルーブリックの確認はサラッとしかやりません。細かいところを自分で確認していると、「あれ、これ教授が言ってたこととちょっと違う。。。」という箇所が時々あります。(このコースはイントロのコースなので、いくつもセクションがあり、毎夏、基本的には同じ内容が繰り返されているよう)本当にこのルーブリックの通りに評価するんだろうか・・・という疑いがもくもくと湧き出てきます。そうすると、「あ、この辺はテキトーでいいかな」とか、「ここで求められてることの意味がよくわからないからスキップ」とか自分に都合のいいように解釈している私がいます。
もし、これがこの教授のオリジナルのルーブリックだったら、多分質問しに行ったと思う。でも、教授にとってもそんなに思い入れがないんじゃないかと感じているから、そこまでしない。費用対効果的な思考がはたらいているのかもしれません。
これは、子どもたちもおんなじなんだろうなぁ。学年で内容を揃えたりするときに、他の人が作成した資料を授業で使うことはよくあるはず。その時に、それをどれだけ教師が自分のものにできているかどうかで、子どもたちのモチベーションやパフォーマンスが変わってくることが予想できます。また、教師の思いや熱量が影響を与え得るということも・・・。やっぱり、「自分ごと」は学びにかかわるすべての人にとっての鍵なんだと強く感じています。
◇メールのレスポンスが早くて安心。でも名前のスペルミスは大減点!
私の名前は、アメリカ人にはなかなか難しいようです。ローマ字表記と発音が一致しない。発音できても、母音が続くためスペルミスが多い。日本人にとってはそこを間違えると別人の名前だよ!!となってしまうのですが・・・(笑)
もちろん、私も発音に関しては人のことは言えないので、ある程度は黙認。「あ、それ、私のこと?」と思ったらひとまず返事をします。機会があれば、訂正しますが、なかなか言いにくいのも事実。(もちろん、逆の立場だったら「早く言ってよー」と思うのもわかっていますが・・・)
でも、発音ではなくスペルミスは別次元の話だと私は捉えています。だって、書くときに確認すればいいだけだから!そんな細かいこと・・・と思うかもしれませんが、そういう細かいところに人の気持ちは反応するんだということを改めて感じました。
子どもたち一人ひとりの名前やどう呼ばれたいのかを大切にしなくては!
◇お菓子差し入れをしてくれると、あー、わかってくれてるなぁと思う(笑)
2回ほど教授がお菓子を差し入れてくれたことがあります。「今日は内容がヘビーだから・・・!」と言いながら。授業が3時間続くことや夕食時と重なることなど、いろいろと配慮してくれているんだと思います。あー、この教授も同じ道を通ったんだなぁと勝手に仲間意識をもってしまいます。
やっぱり、こういう「あ、わかってくれている」と感じることって大事ですね。それはさりげない配慮かもしれないし、はっきりと言葉にして表現してくれることかもしれない。子どもたちそれぞれのニーズは違うけれど、一人ひとりが1日に一度はそう感じることができるような環境づくりを心がけようと気持ちを新たにしています。
◇ディスカッション中にちょっと不穏な空気が流れても、それをからめながら上手に本題に戻していたところがすばらしい!!
基本的にアメリカ人は自己主張はいいことだと思っているので、空気を読まない発言は少なくありません。日本人の感覚からするとびっくりするようなことはよくあります。私が授業中に一番気になるのは、本人にしか関わりのない質問を全体の時間を使って長々とすること。なんで、授業前や後に個別に聞きにいかないんだろう?と不思議で仕方がありません。そうじゃなくても、時間が足りないのに・・・って。
いやいや、もう少し言い方考えようよ・・・。という言い合いがおこった時に、教授がどちらを否定するでもなく、それぞれの主張とその時のトピックの本質を絡めて全体への問いかけへと変換した手腕に感心しました。言い合いに割って入るタイミングも、問いかけた内容も本当に自然で、どちらも嫌な思いをしなかったのではないかと思います。
探究を進めていくと、話し合いが本題から逸れていくことも、どちらかの意見が明らかに間違っていることもよく起こります。それをいかに子どもたちのやる気を削がずに軌道修正するのか・・・。彼女の手腕をぜひ見習いたいです!!
◇コースがもうすぐ終わりだというのに、成績がまだ何もついていなくて・・・?
成績はすべてBlackboardにアップされます。でも、現時点で私は100点満点中0点です・・・。すでに、評価対象の提出物を10個提出しています。いわゆる授業態度に関する評価はいつも最後まで点数がつきませんが、こんなに提出物に点数がつかないのは初めてです。つまり、現時点で私は自分の成績がどうなるのか全く予想ができないということです。これはこの教授の怠慢ではなく、このコースの設計上の問題。わかってはいるのですが、やっぱり不安も伴います。(私のプログラムはB−以下の成績だと単位として認めてもらえない・・・)提出物に明らかに問題があれば知らせてくれるはず。何も言ってこないということは、大丈夫なはず。と思っても、悪魔の囁きは続くのです。
評価に関しては、私もまだまだ模索中。形成的評価の大切さは十分に理解しているつもりですが、それだけではなく、ある程度はわかりやすい形での評価(点数やレターグレードなど)がある方が学びは加速するのではないかと感じています。安心感につながるのかな。これは、今後じっくりと検討したい課題です。
同じ学習者の立場でも、ルームメイトから見た授業風景はきっと違って見えることでしょう。
その人その人が知らずにかけているレンズには様々な経験や文化が詰め込まれているから、人数分の風景がそこにはあるということ。
そのことを忘れずに、自分の教室の情景を探っていきます。
あるあるリスト 〜日本の常識は世界の非常識!?〜
七夕に始めたこの期間限定のブログマラソン。
ここまで順調に続けることができて、ちょっと、いや、だいぶ嬉しいです!
昨日は多様性について書いたので、今まで驚かれることの多かった「日本の当たり前」を改めて挙げてみたいと思います。
(※トータルで6年近くの時間を日本の外で過ごしてきた私調べ)
- 日本にもうサムライはいない
- 日本の7割近くは山野
- 東京市という地名はない/東京は都である
- 日本の国土とモンタナ州の面積はほぼ同じ
- 日本の小学生は、ひらがな・カタカナ・漢字と三種類学習しなくてはいけない
- 通勤・通学1時間はけっこうふつう
- 夏休暇5日
- 夏休み約1ヶ月
- 公立学校にプールがある/体育の授業で水泳をやる
- 子どもだけで外を歩いたり、自転車で移動したりするのふつう
- 学校の送り迎えなし
- 日本人もハンバーガー食べる
- 日本にはイタリアンレストランがたくさんある
- お寿司はなかなか高嶺の花(いつもいつも食べているものではない)
- 納豆/梅干しは常備菜(あんなの食べ物なのか!?!?という驚き)
- 小学校の給食の品数と豪華さ
- 義務教育は9年間
- 川の字で寝る親子
- フォークとナイフも使える
- 学校にそうじの時間がある
- 給食の配膳を子どもたちがする
- 学校に道徳の時間がある
- 小学校で家庭科を教えている
- 小学校6年生の組体操
- 1クラスの子どもの数の多さ(そしてそれを一人で受け持っている)
- 補教というシステム(※補足は後述)
- 識字率の高さとそのレベルの高さ
- 教室内のIT化レベルの低さ(イメージとのギャップがね・・・)
- 学校内の紙ベースシステム
- 高校受験がある
- 家庭訪問
- 公立学校には異動がある
- 毎年違う学年を担当することが多い
- 土曜日に学校行事/授業がある
- 4月始まり3月終わり
リストの順番はランダムですが、最初のいくつかは頻度も高いです。
思わずツッコミが入ったものもあるのではないでしょうか(笑)
やっぱり、学校のことが多いですねー。
ちなみに、これは私が当たり前だと思っていただけで、日本全国的には当たり前ではないこともあるかと思います。まだ、あったような気もしますが、印象に残っているのはこんなところでしょうか。
6年近くのうちほとんどの時間をアメリカで過ごしているので、驚いた相手は大部分がアメリカ人で、しかもあまり海外経験のない人が多かったです。だからこその結果なのかもしれません。
もちろん、私が驚いた「世界の当たり前」もたくさんあります。こちらは、また機会があれば紹介したいと思います。
※欧米では、教師が休暇をとると学校外部から代替人員が呼ばれます。代替人員として登録していて、それをパートタイムの仕事にしている人が多いと聞きます。日本では、学校内でカバーし合うので、子どもたちが学校にいるときに休暇を取るのはとても気が引ける・・・。でも、アメリカでは家族旅行のために学期中に数日間休暇をとる先生もいるんですよー。当然の権利の行使だと言っていました。(そりゃそうだ)
多様性は強み! 〜それとも、これも思い込み?〜
トランプ大統領の失言(いや、失策?)が大バッシングを受けている中、オバマ前大統領は訪問中の南アフリカでW杯優勝の仏チームを引き合いに出していかにdiversityが重要かを力説していました。
日本語では多様性と訳されることが多いこのdiversityは、高校生の頃からの私のテーマでもあります。当時は民族共生という言葉の方がより一般的だったと思いますが、互いの違いを大切にして共に生きていくという点では同じ。
民族の違いは、人種、宗教、言語、風習などと強く結びついていて、ある意味で違いがわかりやすかったんでしょうね。今は、もっとずっと複雑です。複数の文化にルーツを持っていたり、性別や性的指向も簡単には割り切れないことが増えてきていたり…
ポリティカルコレクトネスを気にし出したら、何も言えなくなるんじゃないかと心配になるぐらい。(このポリコレという言葉、こちらではもうほとんど聞かなくなりました・・・)
留学を筆頭に数々の経験を通して、私は多様性が生み出す豊かさを繰り返し実感してきました。だからこそ、教室の中も多様であった方がよりよいコミュニティになっていくと信じています。
ここ数年は、子どもたちにもはっきりと言葉に出して、「多様性は強みである」と伝えています。今の学校は、文化的経済的水準が比較的似通った子どもたちが多いのでほんの些細な違いにも敏感に反応する子も。違いを発信する側も、受け取る側もそれを当たり前だと感じられるようになってほしいと思っています。
と、思っていたのですが、
アメリカにいるとその信念が揺らぐこともあるのです。。。揺らぐというと大げさかもしれませんが、本当にそうなのだろうか?と突きつけられることが多い。例えば、教室の中一つをとってみても、英語のレベル、家庭環境、教育に対する価値観がバラバラであることは珍しくありません。(もちろん、もっと他にもたくさん!)それそれの違いに対応しようとするとリソース不足は必然。
クラスメートの話を聞いていても、効率が悪いのでは…と感じることが多々あります。こちらの公立高校(地域によっては中高が一括り)には入試がないので、日本の高校のようにレベル別に分かれていません。が、高校までが義務教育なので中退者の割合は大きな問題となります。(アメリカの公立と私立の違いは日本より複雑なので、ここでは一般的な公立学校だけに言及しています)
多様性だけを考えれば、当然アメリカの公立高校の方が日本の多くの公立高校よりも恵まれた環境にあると言えます。では、果たしてアメリカの方が恵まれた教育環境にあるのかというと・・・きちんと文献にあたったわけではないけれど、一般的に見て多様性と教育効果の高さにはプラスの大きな因果関係は見つけられないのではないかと思います。もしかしたら、マイナスは見つかるかも…でも、そんなこと公には口にできないだろうし。
多様な個々が共存しているということは、それぞれのニーズに合わせるのは至難の技ということです。この辺りの具体的な状況は、日本の学校で「普通に」育ってきた人には想像することさえ難しいかも知れません。私も大学院での様々なコースで何度もその壁にぶつかりました。
例えば、ある教室の人種構成(この表現も厳密にはポリコレ違反と言われることが・・・)が、半分ヒスパニック系、4分の1黒人、4分の1アジア系だったとします。ちなみに担任は白人女性。この先生がクラスの子どもたちに絵本の読み聞かせをしようと考えたら、主人公や重要な登場人物の人種を考慮することが必要です。物語の文脈と自分の環境が違うと、そこに自分自身を投影できません。当然、そのような乖離が起きてしまえば学習効果も下がります。マイノリティであればあるほど、その傾向は顕著だそうです。クラスのみんなが物語の文脈と自分のつながりを見つけて、お話の中の世界にひたることができる。そんな本が果たしてどれくらいあるのでしょうか・・・。
私はそれまで、物語の主人公が自分と違う人種だからといって、物語に入り込めないなんていう経験をしたことがありませんでした。むしろ、非日常へ連れていってくれる物語の面白さにワクワクしていました。でも、それはきっと、私が生まれてからずっと、日本という社会の中では、メインストリームを歩いてきたからです。髪の色や肌の色の違いを気にしたことがなかったし、マスメディアから「お前の所属しているグループは異端なんだぞ〜」という裏メッセージを受け取ったこともなかったから。ましてや、同化政策の餌食になんて・・・。
こちらの教室で、学級全体でコミュニティをつくろうとすると、まずお互いの共通点を探していかなくてはならないそうです。突き詰めて行くと、「お互い同じ人間なんだから互いにリスペクトし合おう」というところがスタート地点になる。私たちが当たり前だと思っている前提にたどり着くまでに長〜い道のりがあるのです。
※ちなみに、私は日本では逆なのではないかとずっと感じています。共通点を探すのではなく、相違点を大事にすることが寛容なコミュニティにつながっていくと。しかも、同じ教室の同じ班の中での違いを認識することはけっこう難しいことが多い。みんなの中に「同じで当たり前」という思い込みがあるから。そこを考えていくのに、国際理解協力は学級のコミュニティづくりに大きく貢献すると思って実践してきました。
ほら、本当に多様性は強みなんだろうか???と迷ってきませんか?
きっと、人種別に学校や学級を分けた方が教育効果は上がるのではないでしょうか?
いや、人種別だと大問題になるので、能力別?家庭環境別??
もちろん、本気で言っているわけではありません!!
教育効果とは何かというところから検討が必要ですし、そもそも強みを定義しないことにはお話にすらなりません。
でも、自分がそうだと思っていたことに疑問を突きつけられることは間違いない。
実は、これこそが多様性がもたらす豊かさの源だと私は思っています。
アメリカの教育現場の実態に触れる→日本の状況との違いに驚く→今までの「当たり前」が崩れ去る→新たな視点を得る→自分の「思い込み」をその視点から検証する
多様性に触れるということは、自分の中にある視点が増えるということ。
視点が増えれば、それだけ検討できる範囲や角度が多くなるということ。
ある一定の場所からしか物事を見られない人たちが決めた仕組みの中で生きていくことは、その場所とは違うところから物事を見ている人々にとってはきっとすごく苦しい。
豊かなコミュニティをつくるということが、少しでも苦しむ人を減らすことからスタートするのだとしたら・・・。
やっぱり、多様性は強み!!
「探究の時間」と教師のマインドセット 〜エキシビションに向かって〜
ホロコーストミュージアムのインパクトがとてつもなく大きかったことは前述の通り。
norainnorainbows1718.hatenablog.jp
その中でも、冒頭の写真の引用句が一番私の心を掴みました。
「This Museum is not an answer. It is a question.」
ちなみに、私流の翻訳だと、「この博物館が語っているのは答えではなく、問いである」となります。本校の探究の時間のセントラルアイディアにとても良く似ていると思ったから、印象的だったんだろうな。
主に日本の歴史について探究するユニットでは、歴史を学ぶのではなく、歴史から学ぶということをとても重要視しています。まさに、歴史がどんなことを私たちに問いかけていて、それをこれからにどうつなげていくかという探究。
私はこのユニットを2年続けて担当しましたが、大好きなユニットの一つです。子どもたちの歴史に対する見方がガラッと変わります。子どもたちが「自己選択・自己決定」をかなりの範囲で行使できることも気に入っている理由の一つ。そして、やっぱり概念学習ってこういうことだよなぁと何度も実感できる醍醐味も。
が、しかし、このユニットは教える側にとっては、自分のマインドセットの試金石。けっこう、ハードルが高いようです。子どもたちの「歴史的事実の暗記」という知識に偏りが出てしまうことが、どうしても気になってしまう人には苦しいかもしれません。「社会科の教科書に載っていることは全部教えなくては・・・!!」という人にも。
教師側の心持ち一つで、「探究の時間」があっという間に「社会科」に早変わりなんていう悲しいことが起こってしまうのです。
どのようにしたら教師のマインドセットの変化を促せるのか?
ルームメイトと話していても、お互いに具体的な実践のエピソードになると必ずそこが課題として浮き彫りになります。彼女の学校はもう20年近くPYP校として実践を続けているにも関わらずまだこの問題があるんだなーと思うと安心するやら、不安になるやら・・・(笑)まぁ、結局いつも「It's a process.」「It takes time...」と彼女が言って、話は続いていく。それでも、二人で校内研修についてあーでもない、こーでもないとアイディアを出し合うのは楽しいです。
さて、本校では年度終わりのエキシビションに向けての準備が着々と進んでいます。エキシビションとは6年間の学びの集大成をお祝いする発表会とそこまでのユニット全体をさします。グループ探究と個人探究の融合で、PYPの学びの要素を理解し、それを活用できるようになったこと、つまりは「自分で探究のサイクルを回せるようになった」ことをお披露目するわけです。
初年度なので、当然手探り。私たちは子どもの順応性の高さに完全に置いていかれていることも・・・。もちろん、ここに来て手応えを感じ始めた教師もいます。今までの積み重ねが、彼の中でなんらかの意味をもってつながってきたのだと頼もしく感じています。
こちらに来てからも、オンラインで週に1回は担当のグループの子どもたちとミーティングをしています。夏休み明けまでは、あくまでも助走期間。今ある問題意識の種をいろいろな角度から検討する。そのお手伝いが私の役割です。夏休み中にいろいろと調べたり考えたりした結果、トピックがガラッと変わってしまったっていいんです!!むしろ、予備知識がほとんどない中で決めたトピックやテーマのまま突っ走れるわけがない。子どもたちが知らないうちに自分たちでレールを敷きすぎないように、ほどよくツッコミを入れる。
そんなやりとりはとても面白い。子どもたちの頭の上で電球がピカッと光るのが見える!そんな感覚に陥ることさえあります。
でも、ここも教師のマインドセットによって左右されてしまう可能性があります。
「子どもたちへのフィードバックはこれで正しいのですか?」
「このワークシートの記入例を出してもらわないと困ります!」
こういうふうに訴えてくる先生方が本当に必要としていることはなんなのか・・・。
ここでの学びも活かして考え続けたいと思います。
エコについて考える 〜遺伝?文化?〜
暑さと湿度に弱い私ですが、こちらに来てからは室内にいて暑いと感じたことはありません。(むしろ、寒いぐらい・・・)
なぜなら、アメリカではセントラルヒーティングが一般的で、全館一斉に気温を管理するからです。日本のように部屋ごとに冷暖房器具があるわけではないので、部屋を一歩出たら廊下が暑い!とか、風呂場が寒い!!なんてことはありません。
基本的には各部屋ごとで温度調節をできるようになっている建物がほとんどですが、それでも廊下やトイレ、共有スペースは一括管理。スイッチを切らない限りは、細かな温度調節は難しい場合も多いです。
私が滞在している場所の今日の最高気温(予想)は、34℃、最低気温は21℃です。到着して早々に熱波が襲ってきていた時の最高気温は37℃を超えていました。日差しの照りつけは東京よりもずっと強いと感じていますが、朝晩にちゃんと気温が下がってくれるので、この時期の東京より過ごしやすいでしょう。
それなのに・・・
ずーっと冷房つけっぱなし!!!しかも、設定温度は22℃!!!!
この温度設定はルームメイトとの妥協の産物です。寮の中のスタディラウンジなどは、設定が20℃きっていて、誰もいなくてもずーっとON。スイッチの横には、「つけたままにすること!」という注意書きまで。
図書館もそうですが、長袖長ズボン+靴下・ストールでも私には寒くて寒くて、スタディラウンジは他に人がいなかったら、スイッチOFF。
この広ーいキャンパスの殆どの建物の中も同じだと思います。数多ある教室でこの夏の間に使われているのなんて、ほんの一握り。それでも、建物の中に誰かがいる限り全館でスイッチON。。。
クールビズ仕様の日本人としては罪悪感でいっぱいです。。。
ついでに言うと、家を出るときに冷暖房を消すという習慣はこちらにはほとんどありません。日本人にはお馴染みの「帰ってきたら、家の中がモワァっと暑い!!」ということがないんです。
前々から、この人たちの体感温度はどうなっているんだろう???と不思議で仕方ありませんでした。環境問題に対して何も感じていないわけではなさそうなのに・・・。
OECDによると、全世界の建物で使われている電力の約20%が空調のためのものだそう。
きっと、そもそもアメリカは調査対象となった他の多くの国と比べて使用している電力量が桁違いに多いだろうから、この国が冷暖房にかかるエネルギー削減に本気で取り組んだら、かなり大きなエコ効果が期待できるのではないでしょうか。
日本でもよく電車やデパートは冷暖房が効きすぎていて困るなんていう話が出ますよね。でも、こちらはその比ではありません。一般家庭には冷房設備なんて普及していなかった(つまり、必要なかった)モンタナでさえ、お店の中は寒かったー。
昨夏知り合った高校の生物の先生は、彼らがあんなにも冷房をガンガン効かせなくてはいけないのには、遺伝的な要因があるのではないかと推察されています。
私にはそのあたりの詳しいことは全然わかりませんが、平均体温が日本人よりも高いというのは有名な話。でも、ヨーロッパではこんなことなかった気がするんですよね〜。うーん、そもそもの外気温が違うのか?あ、それとも建築仕様の問題??
エコで気になっていること、もう一つ。
左はルームメイトの食料棚の中身。右は冷蔵庫の中身で、右側が彼女のスペース。チルド室に入っているチーズ類もほぼ彼女のもの。
ここには、あと2週間しかいないのに・・・
彼女も買い込みすぎていることは十分にわかっていて、苦笑いしていました。
まぁ、とにかくポーションが大きいんですよねー。左側の写真の下の方にあるホットドック用のパンも、この8個入りが最小サイズ。シリアルも日本基準では大容量。牛乳やジュースも1ℓなんて見たことない気がします。
さらに、一度に買う量も多い多い!!しかも、肉類多い!一体、何人家族???とびっくりしてしまうようなショッピングカートをあちらこちらで見かけます。そもそも、ショッピングカートのサイズからして違う!(笑)もちろん、身体の大きさが違うので食べる量も多いのは当たり前なんだけど。
ちなみに、バージニアは食料品にかかる税金は2.5%。アメリカの家庭用冷蔵庫が特大サイズなのも納得です。
買い物をするときの意識も全然違うんだろうなぁとも感じます。余ったら捨てる、あるいは寄付すればいいと思っていて、買う前に本当に必要かどうか考える(日本では、小学校の家庭科の内容です)という習慣がないのではと疑っています。
昨年度、3年生の探究の時間で MOTTAINAIについて学んだ際に、「始末の料理」についてふれました。節約レシピとかもあんまりこちらでは聞きません。時短はあるけど。
食料品に限らず消費主義にどっぷり浸かってしまっているとこうなってしまうのかも。資源に対しての危機感が薄いのかなー。こんなに広大な国土があるとそういうものなのでしょうか・・・。
こちらの学校現場でも、予算が少ないからいろいろと節約をする動きはあっても、資源保護の観点からエコについて取り組んでいる様子をあまり見かけた記憶がありません。当然地域によって違うので、アメリカ全体がそうだということではありませんが、このあたりにも複雑な社会構成による優先順位の違いが現れているのかもしれません。
お金に余裕のある地域→裕福な家庭が多い→学校は学びの場の役割が強い→学びの質が上がる→環境問題に目を向け課題解決に挑む→(でも、家庭での生活における優先順位はあまり変わらない??)
こんな感じでしょうか。まぁ、確かに、読めない・書けない児童が多数いるとか、家庭環境が難しくて問題行動が多い、そもそも貧困率が高すぎる・・・などという状況では、エコどころではないですよね。。。
うーん、どうしたものやら。
でも、このままでいいわけない!!