Journey On

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2021夏 ブログマラソン③ 【概念型探究と授業実践】

授業実践について書こうと思い、今までの探究のユニットについて思い返したところ・・・。

  • 担任として取り組んだ探究は、27ユニット、総時数は1500時間余り。
  • コーディネーターとして関わった探究は、この1学期末までで46ユニット。
  • 6年生の個人またはグループ探究のメンターを3年間。

印象に強く残っているユニットもうまくいかなかったユニットも数えきれません。これだけのボリュームの実践を1回のブログにまとめることはやはり無理があったので、また別の機会に譲るとして、今回は授業実践がどのように変化したのかについて取り上げたいと思います。

 

大学院に進学する前は、私は公立小学校に勤めていました。経済的・文化的水準の高い地域の学校だったので、学力の高い子どもも多く、学級は落ち着いていました。1年目の比較的早い時期に、教科書にそった授業はこの子たちには物足りないんだなぁと思ったことをよく覚えています。それ以降、授業づくりに試行錯誤を繰り返し、合科型の授業実践を行っていたことは以前のブログに記した通りです。

その頃の実践と概念型探究の実践とでは何が違うのでしょうか。いろいろとあるのですが、特に大きな変化は次の3つ。ただ、今回の変化に関しては、純粋に概念型探究がもたらしたものだけではないかもしれません。教師としての経験の差も大きく関与しているように思います。

 

①「授業はすべてプロセスである」と保護者にも子どもたちにもはっきりと言えること。

②事前準備にかける時間は以前の数倍以上、でも単元が始まると設計は手放して、子どもたちと一緒に学ぶこと。

③単元が始まったら、ハードワークをするのは子どもたちで私ではないこと。

 

 

①「授業はすべてプロセスである」と子どもたちにも保護者にもはっきりと言えること。

 

公立小学校にいた頃、研究授業や授業参観、学習発表会などを前にして、「何とか仕上げなくてはいけない!」とよく思っていました。研究の盛んな学校にいたこともあって、そういう場面ではある種の成果を披露するものだと思い込んでいたのでしょう。単元や本時のねらいは達成できたのか。子どもたちはきちんと発表できたのか。今考えると、なぜそんなことに重きを置いていたのだろう・・・と不思議に思うほど、子どもたちの学習の方向の舵取りをすることに懸命でした。

ところが、探究は私の思い通りには決していきません。というか、思い通りでは面白くないんです!!概念型探究の大きな魅力の一つに、「構成的だけれどとても創造的でもあること」を私は挙げています。保護者や外部の方に説明する時に、「目の前の子どもたちと私だからこそ創造することのできる唯一無二の学びである」とお伝えしています。

完璧もない代わりに完全な失敗もあり得ません。それが、45分間の授業でも、単元の終わりの発表会だったとしても。すべては、「終わりのない旅」(ある子どもが探究について表現した言葉です!)の途中の通過点です。そこまでの成果もあれば課題もある。いい時もあれば悪い時もある。そして、何よりもみんなが同じペースで同じ道を行かないからこそ、共有するときの面白みや有り難みが増すということを実感する。

そこには、「何とか仕上げなくては!」が入り込む隙は全くありません。

探究の時間の参観者はいつでもウェルカムでした。ありのままを見ていただくのみです。

子どもたちも見られていても、プロセスが大切なのだということがわかっているからか、いつでも自然体です。笑ってしまうぐらい。

授業参観や発表会に来てくださる保護者の方にそれをわかっていただくには、時間がかかることもありますが、学級通信や保護者会等で説明を重ねていくうちに、子どもたちの姿に「みんな同じ(レベル)」を求めなくなります。

 

 

②事前準備にかける時間は以前の数倍以上、でも単元が始まると設計は手放して、子どもたちと一緒に学ぶこと。

 

探究の時間の授業でも教科書を使うことはよくありますが、探究の教科書はありません。ですから、いわゆる教材研究はゼロベースからのスタートであることが多いです。そもそも、学習のねらいはもちろん、学習の流れや内容、評価についても自分たちで決めなくてはいけないので、とにかく設計には時間がかかります。(設計については、ブログマラソン⑤でもう少し詳しくお伝えしたいと思っています。)

単元の設計を始めてから、振り返りを終えるまでに、少なく見積もっても、きっと授業時数の3倍の時間は費やしているのではないでしょうか。その大半は、単元が始まるまでに必要とする時間です。とにかく念入りに準備して、その時のテーマや指導内容について造詣を深めるだけでなく、子どもたちの興味・関心の行方や反応についてもいろいろと検討します。

ところが、実際に単元が始まったら、その設計を手放すことがとても大事です。指導案通りに授業をすることに注力していた頃とは大違い!(正確には、その設計をないものとするわけではなく、修正をどんどん重ねていくのですが・・・。)私は「教える」側ではなく、子どもたちと「共に学ぶ」側になるのです。もちろん、ある程度の流れが見えている私が、意図的に子どもたちを揺さぶったり、けしかけたりすることもありますが、多くの場合は、本当に子どもたちの考え方や世界観から様々なことを学んでいます。

当然、こちらの当初の想定を軽々と乗り越えてくる強者たちが出てくることもよくあります。彼らに突きつけられた問いを本気で考えなくてはいけないときの喜びといったら・・・!これぞ、教師冥利に尽きるということなのかもしれませんね。

 

 

③単元が始まったら、ハードワークをするのは子どもたちで私ではないこと。

 

②で述べたように、概念型探究を設計することは面白いことではありますが、決して楽なことではありません。ただ、私が大変なのは準備までで、実際の授業で大変なのは、どう考えても子どもたちの方です。前回も書いたように、子どもたちはとにかく頭を使い続けます。それは、自分で意味を構築するために考えることはもちろんですが、課題の締め切りまでの時間管理や同じグループのメンバーとの役割分担・調整など多方面に渡ります。

PYP(国際バカロレア初等教育プログラム)では、学び方を学ぶことを非常に重要なことだと捉えています。自ら学び続ける力を身につけるためには、教師が先回りして何でも手助けしてあげることは望ましくありません。必要だと思われるサポートの準備はしておきますが、基本的には助けを求められるまでは介入しないようにしています。その分、子どもたちは派手に転んだり、必要以上に遠回りをしたりすることもあります。が、それも、自立して学ぶための大切なプロセスです。

また、自立して学ぶためには、適切な自己評価ができることも重要な要素です。子どもたちは、多くの活動を通してルーブリックやチェックリストと照らし合わせた自己評価や相互評価の経験を積み重ねていきます。何十人分もの課題の評価は一苦労なのですが、これも子どもたちが自分自身でやってくれます。もちろん、子どもたちの自己評価・相互評価が妥当なものになるまでには、丁寧なフィードバックと振り返りが欠かせませんが、全部私一人でやらなくてはいけなかった頃に比べるとかなり余裕ができました。

コーディネーターとして、他の教員にアドバイスする時にも、「授業中に子どもたちの方が楽をしているようだったら、それは設計ミスです!」と言っています(笑)。

どの代の子どもたちを思い浮かべても、彼らは自分の力が試されている、このチャレンジングな学習を実はとても気に入っていたんだと私は確信しています。

 

 

今回の内容はみなさんが、予想していた授業実践とは随分かけ離れたものになってしまったかもしれません。。。具体的な質問などがあれば、参考にしたいのでぜひお聞かせください。