Journey On

教育のこと、世界のこと、自分のこと、日々思うことあれこれ

自分を見つめる 〜I believe web と Identity web〜

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何という花なんでしょう?知っていたら教えてください

そろそろコースの課題もハードになってきた3週目の終わり。きっと、残りの期間はあっという間に過ぎてしまうんだろうなぁ。

 

今日は、授業で取り組んでいるアクティビティを少し紹介します。

このコースには、大きな課題が2つあります。どちらの課題についても、いきなりやってごらんなさいというよりは、授業の中で行うアクティビティが積み重なってその課題の下書きのようなものが出来上がる・・・そんな構成です。

 

教授は自称「web好き」。グラフィックオーガナイザーがないと、ペーパー(論文?小論文?)が書けないと言っています。ということで、授業でもすでに2つのweb(ウェビング、マインドマップ)を課されました。

 

I believe...web>

これは、教師としての自分自身が何を拠りどころとしているかを明確にしていきます。紙の中央に、I believe...と書き、そこからどんどん線を引っ張って、自分が信じていることを一文ずつ書いていきます。その一つの文から、さらに細分化してまた別の信条が文になることがほとんど。

私のものではありませんが、例としてはこんな感じ↓ 

 

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私は、大きなかたまりが7つできました。

今は、じゃあ、一体実践として何をやっているのかということをそれぞれの信条の後に書き加えているところです。こうすることで、「I believe...」と言ってはいるけれど、何も実践していないじゃん!!ということが見えてくる。

はじめは、逆の方が(実践から信条をあぶり出す)やりやすいのでは・・・と思ったけれど、そっちから攻めていたらこういう発見は起きにくいということですよね。

 

けっこう、シビアな結果になっている人もいるようです。誰かの意見やアイディアを借りてきたまま、自分の文脈に落とし込めていないと「言ってることとやっていることのミスマッチ」が多くなってしまうのでしょうね。。。

 

これ、すごく大事な気づきの種だなぁと思っています。

人間の脳は、自分で言っている言葉と人から言われている言葉の区別がつかないと聞いたことがあります。つまり、口では「〇〇って大切だよねー」と言っているから、自分はそれに伴う行動をしているんだ!!と思い込んでしまう可能性があるってこと。

 

実際は正反対のことをしていても気がつかない!?

 

同僚に対して、言ってることとやっていることが一致していないとよく感じていたのは、ここに原因があるのかもしれないと思いました。

これって私生活においても言えることですよね。こちらにいる間に、私生活版の I believe web を作成しようと決めました!!

 

 

<Identity Web>

こちらは、紙の中央に自分の名前を書いて、その周りに自分自身の性質や特徴を表す言葉を書いていきます。

教授の例(下の写真)では、役割のようなものが一かたまり(mom, wife, daughter)しかなくて、面白いなぁと思いました。私が最初に思い浮かべたのはそちらの方が多かったので。

ちなみに、ここには自分で思うことだけではなく、今までに人から言われたことも違う色で書き足していきます。

I believe web よりもこちらの方が時間がかかったし、クラスメートとシェアをしているときに「あ、そうだ。これも!」と増えていきました。いかに、自分のことを普段あまり考えていないかということなんでしょうか。

 

そして、外側には、そのような性質が育まれたきっかけや環境要因となるものを書いていきます。私の場合は、やはり留学経験が大きな要因だと再認識。

でも、じゃあ、なぜそもそも留学をしようと思い立ったのか・・・と突き詰めていけば、どんどん続いていきそう。

 

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今日もこれから恒例のジャーナルをオンラインで提出するのですが、今回のお題はこの辺りをさらに掘り下げていくものなので、ちょっと時間がかかりそうです。

 

これぐらい時間的に余裕がある中で取り組むからこそ、自分をよく見つめることができているんだろうなと感じています。

同じ内容でもこれを日本で働きながらオンラインだけで受講していたら、とてもこんな豊かな学びにはつながらなかったと思います。

(実は、ここに来るまでの仕事の調整やビザの関係などいろいろと大変なことが多くて、オンラインで受講させてくれればいいのに!!とちょっとプリプリしていたのでした・・・)

 

番外編 ワシントンDC観光 〜やっぱり、キーワードはculture?〜

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スミソニアン学術協会。感謝しかありません・・・


13日の金曜日

何か不吉なことが起こるのでは・・・なんて話をしながらルームメイトとDCへお出かけ。例によって、シャトルバスに乗って30分でメトロの駅へ。そこからさらに電車に揺られること30分ちょっと。

Facebookが大きな広告を出していてびっくりしました。

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まだ、午前中だというのに、なかなかにダメージを与える日差しを浴びながら、DCの街を歩きます。やっぱり、この辺りまで来ると建物の雰囲気がぐっと変わって、観光気分を味わえます(笑)

基本的に無料で一般公開されているスミソニアン博物館群を満喫するぞー!!

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FBI本部の真横を通って、ナショナルモールへ。

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本日のメインは、ホロコーストミュージアム

でも、その前にルームメイトと分かれて、私は大好きなアメリカンインディアンミュージアムへ。ここは、これで3回目。(もしかしたら、4回目かも!)

展示がだいぶ変わっていて、とてもじゃないけど今日の限られた時間では回りきれませんでした。ここを発つ前にもう一度来ようかなと真剣に考えるほど。

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またまた、ジョージ・ワシントンさんの偉大さに遭遇。
今回の滞在では彼が本当によく出てきます。

学部時代に取った数々の授業を思い出しながら、やっぱり彼らの文化や価値観に魅かれるなぁと。それと同時に、先日インタビューした、ネイティブアメリカンの教育に情熱を傾けている女性の話が蘇ります。

薬物中毒や高い失業率と自殺率。まだまだ、彼らを取り巻く状況は厳しい。同化政策時代に自分たちの文化や言語を奪われてしまった人々の苦しみは続いています。教育に携わる者として、私たちができることは何なのでしょうか・・・。

 

 

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また、てくてくと歩いてランチはウォーターフロントで。

暑いといっても日陰に入るとそれほどでもないので、テラス席でお昼を楽しんでいる人もいっぱい。私たちもお腹を満たして、いざホロコーストミュージアムへ!

 

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写真の大きさが、衝撃の大きさを物語っていると思ってください。

とてもじゃないけれど、言葉では表しきれない大きな何かを受け取りました。

 

人間が人間に対してこんなことができるのだということ。

こんなにも簡単に人としての尊厳は奪われてしまうのだということ。

ヒトラーは、多くの人々が傍観者になることを見越していて、そこにつけこんだのだということ。

デンマークだけが唯一国として、ユダヤ系国民を守ったということ。そして、それによって、他の国と比べて奪われた命が桁違いに少ないということ。

スウェーデンは中立国として、多くの命を救ったこと。

そんな絶望的な中でも、対抗する組織をつくって自分たちの命よりも尊厳を守ろうと戦い抜いた人々がいたこと。

アウシュビッツをはじめとする強制収容所に収監されていたのは、ユダヤ人だけではなかったこと。

ゲットーでの生活は想像していたよりもずっと「普通」だったこと。

 

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書きはじめたらきりがありませんが、ここを訪れなければわからなかったこともあれば、知ろうとすれば知ることができたはずなのに私自身が無関心だったこともあって、自分に対しても、ヒューマニティーに対してもいろいろなものが突き刺さりました。

これこそが、国際バカロレアプログラムのミッションの根幹です。二度とこのようなことを起こさないための教育です。特に、PYPは子どもたちの姿勢や態度の醸成にも力を入れているので、ルームメイトと二人でPYP校で教えていることの意義や使命を強く感じました。(彼女は、トランプ大統領の言動とヒトラーがやったことが重なると言って、この国のこれからをとても憂えてもいるのだけれど・・・)

 

ホロコーストを生き抜いた人たちは語ります。

これは、どの時代にも、どの国にでも、誰にでも 起こり得るのだと。

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だからこそ、なぜと問い続けることが大切なのだと。

 

 

ホロコーストミュージアムを出てから、またまたてくてくと歩いて夏の間は毎週開催されているというJazz in the gardenへ向かいました。

これも、スミソニアン博物館の催しものなので当然タダ。私たちは、特に何も持ってこなかったけど、他の人達はブランケットや食料持参でピクニック気分!芝生の上に座って疲れた足を伸ばします。

かなりの人出で賑わっているので、ピープルウォッチには絶好でした。DCの人口の人種比率に比べて、明らかに黒人が少なすぎるのはどうしてだろう?なんて話をルームメイトとしながら、これもcultural capitalの一種だねと授業の復習も欠かしません(笑)

時々吹き抜ける心地よい風を感じながら、贅沢なひとときでした。

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しかし、次から次へと人がやって来てちょっと居心地が悪くなって来たので、早めに切り上げて、最後にポートレートギャラリーに閉館間際に滑り込みます。

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歴代大統領の中でも、オバマ大統領のポートレートはとても印象的でした。

このポートレートと一緒に写真を撮るために行列ができていたほど。

やっぱり、もっとゆっくりと見たかったー・・・。

 

ここでの滞在も残り2週間をきりました。また、来られるといいなぁ。

 

 

 

 

 

 



 

Equality(平等性) と Equity(公正性) 〜一斉授業からの脱却に伴う課題〜

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みなさんは会議やワークショップ、あるいは授業など複数回連続しておこなわれるものに参加するときに、いつも同じ座席に着きますか?それとも、あえて毎回違う場所を選びますか?

特に座席が指定されていなくても、自然と前回と同じ場所に同じ人が座ることが多いことをおもしろいなぁと感じています。その現象は、ここアメリカでもあるんですよ!今回のコースは、大きく3つの島に分かれて座っているのですが、メンバーがほぼ固定されています。

基本的にグループディスカッションが授業時間の8割程度を占める今回のコースにおいて、教授はマンネリ化させないための仕掛けをたくさん用意しています。さらに、その工夫は、私たちが実際に教室で子どもたちにも使えるように考えてくれているんだろうなとも。

以前の投稿で、学習者としての立場から学びを捉え直すことについてさらっと触れたと思うのですが、そのあたりのリフレクションを促すねらいもこの仕掛けにはあると見ています。(ちなみに、一人あたりの時間を決めて、その間他の人はしゃべってはいけない。早く終わっても、沈黙を味わう。というルールへのやりにくさを感じている人が多かった。。。)

 

教授は、一つのやり方が終わると、どうだった?と聞いてきます。反応は当然まちまちなのですが、そこでよく彼女が口にするのが「equal participation」という言葉です。みんなが平等にディスカッションに参加できるような仕組みを提供するということが教授の意図としてあるということですよね。

でも、時間で区切られることや、聞き手が黙っていなくてはいけないことは私にとっては時に大きなハンディキャップとなります。1分間で話せる量が違ったり、相手の選んだ言葉に対してその意図が今ひとつ汲み取れなかったり。私以外のクラスメートはみんなアメリカ人。学校教育を取り巻く基本的な文脈も同じです。そんな中で、私一人だけが「えっ?一体なんの話をしているの??」ということが起こるのです。

これは、語学力よりも文化の違いによるものが大きいかな。

例えば、そうじの時間の工夫や指導の仕方について話し合う時に、日本人同士であれば大体同じ様子を想定して話ができますよね?でも、外国人にとっては異文化です。「そうじの時間?何それ?いつ?誰が?どうやって?」という人が混じっていたら・・・。

 

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↑この2つの違いを説明する時に、よく用いられるイメージですが、さしずめ私は左側の紫色のシャツの子といったところでしょうか(笑)

 

もちろん、私は教授の手法を不公平だー!!と訴えたいわけではありません。

 

私を特別扱いしないことこそが私への配慮だという思いがあると解釈しているし、何より、そこで私が自分の感じたことをみんなと共有することで、周囲の学びがより深まると感じているからです。(私の意志・選択でこの場にいるのだから、多少の不公平感は当たり前だという思いも当然あります)

広い意味での文化や言語習得について、いくつも文献を読んでディスカッションを繰り返してきている私たちでも、こういうことには案外気がつかないものです。そして、それは翻って自分の教室での、教師としての言葉の選択や対応について考えるよいきっかけとなるはず。

 

子どもはわりと簡単に「それって、差別だー!」と言うことがありませんか?誰かが自分とは違う対応を受けていることにとても敏感な子も少なくありません。私はいつもそういうことが起こると、あ、ラッキーと思ってEqualityとEquityの話をします。

ただ、真の意味で個々に対応する(Equity)ということは、とても困難です。個人の特性や資質というものは目に見えるものばかりではないから。生育環境も含めた文化的背景への理解を深め、さらにそれによって培われたであろうその人の価値観や物の見方を捉えることは並大抵のことではありません。それを、クラスの人数分と考えると・・・。

 

アメリカは社会の構成要素が本当に複雑だからこそ、ここが大きな課題です。私のクラスメートたちも頭を抱えています。アメリカで教育効果に対するリサーチが多いのもこのあたりが要因なのかもしれませんね。

複雑さの違いはあっても、日本にも当然訪れる未来です。格差が広がっているとはいえ、それによって不利益を被っている人数の割合は、世界の多くの国々と比べたらまだ低い。だからこそ、今のうちに効果的な策を実施していかないと!!と強く感じます。

 

私は、日本の伝統的な教育手法は、一斉授業(教科書や指導書があることも含めて)によってある程度のEqualityを担保してきたと言っていいと思っています。一斉授業からの脱却には、Equityへの移行が伴います。そこをきちんと分析し、新たな方策を提案していかないと、国レベルで考えたときに教育の効果は半減してしまうのではないでしょうか。現行の教師教育はそこまで対応できているのか・・・。少し不安です。

 

 

探究者とは・・・ その2 〜追われるのではなく、追いかける〜

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「結局、探究ってなんなの?」

「探究って誰でもできるの?」

こんな質問を時々いただきます。でも、きちんとお答えできたことはないかも知れません。なぜって、その人の言っている探究と私の言っている探究が同じとは限らないし、誰でもできるようでもあり、でも少なくともある時点ではできていない人がいることも知っているから・・・

 

私が、「探究( inquiry-based learning)」 と呼ばれるものに出会って、そろそろ8年ぐらいでしょうか。実践者としても研究者としてもまだまだこれからなのですが、様々な文献を読み、実際にそのような学びが起きている場にも何度も立ち会ったことで、私自身が目指す「探究」のカタチはだいぶ見えてきたかなと感じています。

 

教師が授業で「探究」を展開していくには、かなり綿密なプランニングが欠かせません。単発の単元だとしても、いろいろなつながりをどうばら撒き、最終的にどのように伏線を回収していくかというところには、それなりの技量が求められると思います。ましてや、本校のように年間を通してずっと「探究」を続けていくには、今までの授業準備・教材研究とは質の違う大変さ(でも、それが醍醐味でもある!)があります。

その反面、人として生きていく中での「探究」には余裕が必要です。遊び心と言い換えてもいいかも知れません。決まった道をひたすら突き進むことと「探究」は少しちがう。たとえ、たどり着く場所が同じだったとしても、そこまでの道程に「探究」が現れる。だから、「探究」の真髄はその「プロセス」にあるのだと実感しています。

 

子どもたちにとっては、授業としての「探究」も、生きていく中での「探究」も同じであってほしい。授業の中で、探究者として生きていくために必要(だと思われる)な知識やスキル、姿勢を身につけ、それを教室の外でも自然と実践している。そんな姿が見えると本当に嬉しくなります。

 

年齢に関係なく、探究者は自分から何かを(たとえそれがはっきりと見えていないことがあったとしても)追いかけているのではないでしょうか。

同じ学習に向かっていても、自ら疑問やテーマについて追いかけている子と課題や締め切りに追われている子では、探究の質が全然違います。「探究」をデザインする側の教師にも同じことが言えます。

 

ここ2年ほど余裕のない日々を送り、常に何かに追われていることが多い身としては、これからの働きかたを本当に考えさせられます。数日前にも投稿したように、日本の当たり前は他の国の当たり前からはずいぶんと遠いところにいるものです。。。

norainnorainbows1718.hatenablog.jp

 

残念ながら、何にも追われない日々が訪れるとはとても思えません。また、それが必ずしもいいことだとも思いません。

でも、帰国してからも、自分の興味や感覚を追いかける時間をもっともっと増やしていきたいです。

 

 

 

授業のディスカッションからわかったこと 〜最近のトレンド〜

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キャンパスの外れにある野生のブラックベリー。もう少ししたら食べられる!?

大学院のコースもそろそろ折り返し地点を迎えます。だんだん、クラスメート同士が打ち解けてきて、ディスカッションもさらに活発になってきました。

昨日は、cultureとは何か、そしてそれが学校教育に及ぼす影響について文献を土台としていろいろと探るという内容。当然、自分が教えている文脈での話が多くなるわけですが、そんな中でこの辺りの学校では比較的広まっているんだなぁと感じたトレンドを紹介します。

 

Responsive Classroom 

https://www.responsiveclassroom.org

これは、学級経営のアプローチの一つ。日本人の感覚でいうとそこまで取り立てるほどのことはないというか、ある程度あたりまえのような気もするのですが、全米でここ数年かなり急速に広まっているみたいです。自治体全部で取り入れているところも多いとか。エビデンスベースというところからは、経験値や感覚に頼りがちな私たちも学ぶことがありそうですね。

 

ねらいは4つ。

1.主体的な学び(Engaging Academics)

2.ポジティブな学級コミュニティ(Positive Community)

3.効果的な学級経営(Effective Management)

4.発達段階を鑑みた児童理解(Developmental Awareness)

 

ざっくりまとめると、「子どもたちは安心・安全な環境の中、楽しく活動することで、一番よく学ぶことができるよね」というところでしょうか。社会性や情緒的発達も大事だね。協働も欠かせないよね。そのために、朝の会と帰りの会をサークルでやることは大事!といった感じ。(もちろん、他にもコンテンツはたくさんあります!)

もともと、アメリカの学校ではコミュニティ形成という部分が日本に比べて軽視されがちでした。個人主義の賜物なのか、あるいは民族・人種的多様性がもたらすハードルなのか・・・。今までアメリカの学校を10校ほど参観しましたが、そうじの時間や、当番・係活動といったものも見たことがありません。

児童理解に関しても、ステレオタイプがまかり通ってしまったり、また、児童と過ごす時間が授業中に限られてしまうことが多かったりして、表層的なのではないかと感じたことも多々ありました。

そういう意味では、game changerになり得るアプローチなのかもしれません。ただ、これすらも、「こうすれば(統一)テストスコアが上がる」という文脈で語られることが多いことに、アメリカの教育の闇の部分が透けて見えます・・・

 

www.youtube.com

 

他にも、Maker Learning, Genius Hour, Arts Integration などなど、気になる実践がいくつか。引き続きリサーチを続けようと思っています。

 

ついでに、こちらも!

授業でマインドマップを使った課題が出たときに紹介されたツール。マインドマップ以外にもカードやポスターがつくれるみたいで、なかなかお気に入りです。日本語にも対応しています!!

www.canva.com

リモートワークの未来はある? 〜教師としての成長・働きかた〜

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当然のことながら、こちらの学校は絶賛夏休み中。同じコースをとっている他の14名も夏休みを活用して、professional developmentも兼ねて受講している。

せっかく、少し時間に余裕ができたんだから・・・と思って、ヨーロッパの友達に連絡をとろうとしても、みんなバカンス中で、なかにはデジタルデトックスに励んでいる人も。

かたや、日本では学期末に向けて成績処理や学期のまとめなど、猛チャージ中。私も、時差を考慮してもらいながらも、あっちこっちのオンラインミーティングに呼ばれる。今日の夜は、6年生と2回目のZoomミーティング。少人数との関わりであれば、リモートワークでもできることはけっこうあるかもしれません。

 

教師生活9年目。長期間仕事を離れるのは、これが2回目です。それ以外でも2年に1回ぐらいのペースで、できるだけまとめて休みをとって、海外で非日常にどっぷり浸かっていました。そこでしか出逢えない人たちとの密度の濃い交流を通して、たくさんの気づきや新たな視点がもたらされる。そういう機会が、私の成長にとっては欠かせないんだと改めて実感しています。

 

日頃、慌しい生活を送ることが多い私たち教師にとって、立ち止まってじっくりと自分を見つめ直す機会をもつことはとても大切なこと。アメリカでも、教師は職業というよりも生き様とセットというような考え方をする人が多いようです。この長い休みの間に、自分の価値観を再確認したり、ゆっくりと自分自身の時間を大切にしたり・・・。

 

アメリカの学校には、「サブ」と呼ばれるシステムがあって、教師が休みを取ると、「サブリスト」に電話して代替教員として入ってもらいます。同じ学校の人にしわ寄せがいかないので、日本人の感覚では信じられないような理由で休みを取る人も少なくありません。まぁ、当然の権利を行使しているだけってことなんですよね。

(もちろん、「サブ」の人によっては、授業が成り立たないなんてこともあるそうですが・・・)

 

小・中・高の教員にもサバティカルが認められるようにならないかなぁ。ICTの活用で、短い期間であればリモートワークができるようにならないかなぁ。罪悪感に苛まれず、病休以外で有給を取れるようにならないかなぁ。。。

成長しながら働き続けるために、どんなお仕事の方もみなさん、自分なりの持続可能なシステムを見出そうとしているんですよね。きっと。

教師にとって、その持続可能性を阻害しているものがなんなのか。外に出て、いろいろな「あたりまえ」に直面する度に、考えをめぐらせています。

 

探究者とは・・・ その1 〜Cゾーン〜

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今回のルームメイトは、フィリピン系カナダ人。父親はフィリピン、母親はアイルランドとフィリピンというバックグラウンドをもっていて、彼女が小学生の時にアメリカに移住してきたそう。フロリダのIB校で長年教えていて、PYPコーディネーターとしての3年目が終わったところだと言っていました。多分、50代半ばぐらいなのかなぁ。

 

彼女と一緒に暮らしていると、「これは私のCゾーンの外なの。。。」という言葉が度々出て来ます。

 

私たちの寮はスイートタイプで、一人用の部屋が4つ。中心に、キッチンとリビングがあって、自炊派にはなかなか快適。でも、夏の間はキャンパスにあるお店はほとんどしまっているので、買い出しは外に行く必要があります。

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一番近いスーパーは1.5km先。車社会のアメリカでは、歩くにはそれなりの距離です。まぁ、日本でも重い買い物袋を下げて1.5km歩くことはそんなにないかもしれないけど・・・

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それから、街中に出る(ファーマーズマーケット、カフェ、食料品以外の買い物などなど)には、循環型のバスを活用しなくちゃいけないし、ワシントンD.C.に出かけるには、バスかシャトルとメトロを乗り継いで行く。

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(メトロの最寄り駅まで30分+メトロ約30分でホワイトハウス付近に到着!)

 

東京で公共交通機関を使って生活している私にとってはなんてことないことが、車移動ばっかりの彼女にとっては冒険の連続のようです。私が、「ちょっと〇〇行ってくるね」というと、「私も行く!」と着いてくる(笑)

7月4日の独立記念日のイベントへは片道約1時間歩いて、シャトルバス乗り場まで。その間もずっとGoogle Mapsにらめっこしていました。私が感覚的に近道を行こうとしても許してもらえません・・・(笑)

初めてここに来たとは言え、同じアメリカ国内で、言葉もスマホも通じる(私のスマホwifiがなければ、ただのカメラとメモ帳代わり)彼女の方が私よりずっと大変そうで、なんだか不思議な感じです。

 

でも、彼女からは弱音を吐いていても、その冒険を楽しんでいることも伝わってきて、その度に、あぁ、彼女は探究者なんだなーと。それが、彼女の元々の性質なのか、PYP校で長く教えているからかなのかはわからないけれど、彼女と話しているとそう感じることがたくさんあります。

 

「探究は、学びの一つの形ではなく、生き方だ」ということを聞いたことがあるんじゃないでしょうか。私も強くそう思うのですが、そのことを人に伝えるためには言葉になっていない部分が多くてもどかしさを感じていました。

彼女との暮らしにはそこを解明するヒントがあるのかもしれません・・・。

 

つづく