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Equality(平等性) と Equity(公正性) 〜一斉授業からの脱却に伴う課題〜

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みなさんは会議やワークショップ、あるいは授業など複数回連続しておこなわれるものに参加するときに、いつも同じ座席に着きますか?それとも、あえて毎回違う場所を選びますか?

特に座席が指定されていなくても、自然と前回と同じ場所に同じ人が座ることが多いことをおもしろいなぁと感じています。その現象は、ここアメリカでもあるんですよ!今回のコースは、大きく3つの島に分かれて座っているのですが、メンバーがほぼ固定されています。

基本的にグループディスカッションが授業時間の8割程度を占める今回のコースにおいて、教授はマンネリ化させないための仕掛けをたくさん用意しています。さらに、その工夫は、私たちが実際に教室で子どもたちにも使えるように考えてくれているんだろうなとも。

以前の投稿で、学習者としての立場から学びを捉え直すことについてさらっと触れたと思うのですが、そのあたりのリフレクションを促すねらいもこの仕掛けにはあると見ています。(ちなみに、一人あたりの時間を決めて、その間他の人はしゃべってはいけない。早く終わっても、沈黙を味わう。というルールへのやりにくさを感じている人が多かった。。。)

 

教授は、一つのやり方が終わると、どうだった?と聞いてきます。反応は当然まちまちなのですが、そこでよく彼女が口にするのが「equal participation」という言葉です。みんなが平等にディスカッションに参加できるような仕組みを提供するということが教授の意図としてあるということですよね。

でも、時間で区切られることや、聞き手が黙っていなくてはいけないことは私にとっては時に大きなハンディキャップとなります。1分間で話せる量が違ったり、相手の選んだ言葉に対してその意図が今ひとつ汲み取れなかったり。私以外のクラスメートはみんなアメリカ人。学校教育を取り巻く基本的な文脈も同じです。そんな中で、私一人だけが「えっ?一体なんの話をしているの??」ということが起こるのです。

これは、語学力よりも文化の違いによるものが大きいかな。

例えば、そうじの時間の工夫や指導の仕方について話し合う時に、日本人同士であれば大体同じ様子を想定して話ができますよね?でも、外国人にとっては異文化です。「そうじの時間?何それ?いつ?誰が?どうやって?」という人が混じっていたら・・・。

 

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↑この2つの違いを説明する時に、よく用いられるイメージですが、さしずめ私は左側の紫色のシャツの子といったところでしょうか(笑)

 

もちろん、私は教授の手法を不公平だー!!と訴えたいわけではありません。

 

私を特別扱いしないことこそが私への配慮だという思いがあると解釈しているし、何より、そこで私が自分の感じたことをみんなと共有することで、周囲の学びがより深まると感じているからです。(私の意志・選択でこの場にいるのだから、多少の不公平感は当たり前だという思いも当然あります)

広い意味での文化や言語習得について、いくつも文献を読んでディスカッションを繰り返してきている私たちでも、こういうことには案外気がつかないものです。そして、それは翻って自分の教室での、教師としての言葉の選択や対応について考えるよいきっかけとなるはず。

 

子どもはわりと簡単に「それって、差別だー!」と言うことがありませんか?誰かが自分とは違う対応を受けていることにとても敏感な子も少なくありません。私はいつもそういうことが起こると、あ、ラッキーと思ってEqualityとEquityの話をします。

ただ、真の意味で個々に対応する(Equity)ということは、とても困難です。個人の特性や資質というものは目に見えるものばかりではないから。生育環境も含めた文化的背景への理解を深め、さらにそれによって培われたであろうその人の価値観や物の見方を捉えることは並大抵のことではありません。それを、クラスの人数分と考えると・・・。

 

アメリカは社会の構成要素が本当に複雑だからこそ、ここが大きな課題です。私のクラスメートたちも頭を抱えています。アメリカで教育効果に対するリサーチが多いのもこのあたりが要因なのかもしれませんね。

複雑さの違いはあっても、日本にも当然訪れる未来です。格差が広がっているとはいえ、それによって不利益を被っている人数の割合は、世界の多くの国々と比べたらまだ低い。だからこそ、今のうちに効果的な策を実施していかないと!!と強く感じます。

 

私は、日本の伝統的な教育手法は、一斉授業(教科書や指導書があることも含めて)によってある程度のEqualityを担保してきたと言っていいと思っています。一斉授業からの脱却には、Equityへの移行が伴います。そこをきちんと分析し、新たな方策を提案していかないと、国レベルで考えたときに教育の効果は半減してしまうのではないでしょうか。現行の教師教育はそこまで対応できているのか・・・。少し不安です。