Journey On

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Assumptions 〜想定?思い込み?見せかけ?〜とReflection

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今回の滞在では「Inquiry Into Practice」というコースを受講しています。本来は、プログラムの最初に履修しなければいけない授業なのですが、諸々あって(アメリカでは留学生という立場はとても制約が多い・・・)結局最後に履修することになってしまいました。

さて、そろそろ2週間が経とうとしていますが、この授業の中でここまでのところよく出てくる言葉TOP3は

1 Reflection / Critical Reflection

2 Experience

3 Assumptions

といったところかな・・・。デューイやブルックフィールドをはじめとする数々の文献にあたりながら、Teacher as a researcher とはなんぞや?というところの土台づくり。

Assumptionsは、辞書によると想定や仮定、思い込みなどと訳されるようですが、「見せかけ」というニュアンスも含まれている気がしています。

ここまでのディスカッションをサクッとまとめてしまうと、

「リフレクションをするときに、この思い込みや見せかけに踏み込む自問自答ができないと、あんまり意味ないよねー」

という感じ。でも、当然ながら言うは易し行うは難し。そもそも、自分の思い込みや対象となる出来事の見せかけの部分をどれだけの人が自覚できてるんだろう?自分がメガネをかけて物事を見ていることはわかっているようでいてもあまり気にしていないものなのかもしれません。このメガネ(assumptions)には、広い意味でのcultureが大きく寄与しています。

 

例えば、日本人留学生あるあるだと思いますが、英語が拙い(しゃべれないではなく、選ぶ語彙がネイティブから見てアカデミックレベルとしては稚拙だったり、発音に特徴があったりする)と、知的レベルも実際よりも低く見られがちです。そして、言動を軽くあしらわれることも・・・。

私も何度も経験しました。もう、当たり前すぎて憤慨することも、傷つくこともないけれど、今回のコースの中でもそういう空気を感じることがあります。実はこれ、白人エリートにその傾向が強い気がする。意欲の高い教師集団でも起こり得ることを考えるとAssumptionsの壁は本当に高いですよね。

ここには、いろいろな assumptions と culture が内包されている可能性が考えられます。短絡的だけど、わかりやすい例としては

①英語が拙い→知的レベルが低い

②知的レベルが低い→そこから学ぶものはない

③そこから学ぶものがない→時間の無駄、あるいは自分にとって不利益

 

assumptionには当然個人的な経験の有無が大きくものを言うけれど、cultureとしては、例えば①だと、社会的に「英語が拙い=教育のレベルが低い」とする文化があることや、そもそも白人以外とあまり接することがないという地域性(文化)があるかもしれない。②や③はメディアの影響も大きいはず。

歴史、経済的環境、民族・人種的信念、家庭環境などなど本当にたくさんの要因が複雑に絡み合っていて、自分のこととは言え紐解くことは簡単ではありませんよね。まして、この様な多様性が見えにくい日本ではなおさら難しいのではないでしょうか。

だからこそ、ここに、ただの Reflection と Critical Reflection の差があるということなんだなぁと。ここでいろいろなことを見聞きし対話する中で、自分や相手のassumptionに気がつき、はっとすることが少しずつ増えてきたように思います。

「多様性は強み」教室で子どもたちに繰り返し伝えていることに、また新たな意味が加わったなと感じています。

 

ページトップの写真を見て、何を見つけ、何を思いましたか?その「発見」の中には、どんなassumptions・cultureが隠れているのでしょうか・・・。